群馬県尾島町世良田長楽寺の伝得川義季墓所にある宝塔(国指定重要文化財)。撮影者;亜季多幸孝。
財前家墓地の通称「国東塔」。大分県国東半島にのみ見られる変形の宝塔(国指定重要文化財)。撮影者;島津龍伯氏。
神奈川県鎌倉市別願寺の伝足利持氏供養塔(鎌倉市指定有形文化財)。撮影者;亜季多幸孝。
ほうとう 宝塔
日本に於ける仏塔の一形式で、平面円形の塔身に方形屋根を架けた一重塔。
これに裳階(もこし)を付けて二重にしたのが多宝塔であるが、はじめは両方とも多宝塔と称した。両塔を形の上で区別したのはかなり後で、慶長十三年(1608)成立の『匠明(しょうめい)』が早い例。
密教の金剛界曼祭羅に描かれている大日如来の三昧耶形(さまやぎょう)の形を基にして、平安時代に真言宗寺院で造られたと考えられるが、『法華経』の所説による釈迦・多宝二仏並座の塔形としても多く用いられた。
多宝塔に比べると工芸品や石造物に遺品が多く、法隆寺献納金銅宝塔(保延四年(1138)、東京国立博物館蔵)や岡山五流尊滝院石宝塔(仁治元年(1240)はその古い例。木造建築の遺例は埼玉慈光寺開山塔(弘治二年(1556))をはじめ江戸時代の東京本門寺宝塔など数基しかない。
なお、宝塔の語は古くは特定の形式を指したのではなく、「三重宝塔」などのように仏塔の敬称として用いられた。
『国史大辞典』より引用
長野県上田市別所温泉にある、常楽寺の石造多宝塔(国指定重要文化財)。撮影者;亜季多幸孝。
たほうとう 多宝塔
仏塔の一形式で、平面が下重方形・上重円形(屋根は方形)の二重塔をいう。平面円形の一重塔すなわち宝塔に方形の裳階(もこし)を付けたものと解されるが、かつては阿弥陀寺鉄宝塔(建久八年(1197)の銘文にあるように宝塔も多宝塔と称しており、両塔を形式上区別していない。
五重や三重の多重塔が飛鳥時代に中国・朝鮮半島から伝えられたのに対し、多宝塔の形式は平安時代に日本で造り出された。
多宝塔の名称は『法華経』見宝塔品第十一の所説にいう釈迦・多宝二仏並座の塔に由来し、元来は塔の形式を指すものではない。
日本では長谷寺銅板法華説相図(白鳳時代)に多宝仏塔とあるのが最も古いが、それには三重塔が刻まれている。
多重塔とは形式の異なる塔を多宝塔と称したのは、量澄が比叡山をはじめ全国六ヵ所に建立を計画した六所宝塔院が最初で、そこでは『法華経』を納めたことから多宝塔と呼んだらしいが、その形式は明らかでない。現在の多宝塔の原形は空海が高野山に建立を計画した毘盧遮郡法界体性塔で、下重方五間・上重円形、内部には円形の柱列が二列あった。これは真言宗の本尊である大日如来の三味耶形をモデルとしそれに裳階を付けて二重にしたと考えられ、大日如来を建築の形に表わしたものであり内部にも大日如来を祀っていた。
裳階を付けたのは建築としての納まりや使用上のためであって、西大寺金銅宝塔(文永七年(1270))などのように工芸品には大日如来の三昧耶形により近い宝塔形式をとるものが多い。
高野山と同じ形式の塔はそのあと神護寺や貞観寺にも建てられたらしいが、遅くとも平安時代中ごろにはこれを小型にし簡略化した塔が一般化した。それが石山寺多宝塔(建久五年)や金剛三昧院多宝塔(貞応二年(1223))に代表される現在の多宝塔で、下重が方三間となり内部に円形柱列はない。
高野山の塔の形式を伝えるものとしては根来寺多宝塔(室町時代)があり大塔形式と呼んでいるが、これも高野山の塔よりは小さく内部の円形柱列が一列しかない。
『国史大辞典』より引用
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