埼玉県東松山市光福寺の宝篋印塔(国指定重要文化財)。撮影者:亜季多幸孝
ほうきょういんとう 宝篋印塔
塔婆の一形式。中世以降主として石造塔に用いられた。
宝篋印塔の名は、内部に『宝篋印陀羅尼』を納めたことに由来する。『宝篋印陀羅尼』とは、一切如来の全身舎利の功徳を集めた呪であって、四十句からなる。これを誦すれば、地獄の先祖に極楽に至り、百病・貧窮の者も救われるという。
中国五代末期の顕徳二隼(955)呉越王銭弘俶は、八万四干基の金塗小塔を造立し諸国に分けた。その一部は目本にも将来され、銅小塔が数基現存するが、方形塔身、屋根隅飾など、のちの宝篋印塔形式に一致する部分が多い。しかし年代的に三百年近い差があり、かつ意匠に相異点もあるので、直接的な関係があるかどうか、なお研究を要する。
宝篋印塔形式は、中世に籾塔と称される木造小塔に用いられ、実際に『宝篋印陀羅尼』が納められた例があるが、一方この形式は舎利塔に採用され、また石造塔では、多く墓塔または供養塔として造立されたようで、一般には陀羅尼とは無関係となった。
宝篋印塔形式の典型を述べると、まず基礎は方形で、上部を段形二段でせばめ(蓮花座とすることもある)、上に方形の塔身を安置する。塔身四面には四方仏またはその種字を刻む。屋根(または笠)は下部に段形二段を作って斗きょうに代え、軒先は直線の帯状となり、四隅に飾(耳・耳飾・突起ともいう)を立てる。屋根面も五・六段の段形とし、頂上に相輪を置く。ただし詳細にみると、時代差・地域差・個体差はある。
まず時代差では、鎌倉時代中期で大きく二分される。すなわち古式なものは、隅飾が軒免面と一体をなす。在銘塔としては、奈良県生駒市有里町所在塔(正元元年(1259)銘、重要文化財)、京都市右京区の為因寺塔(文永二年(1265)銘、同)などがある。一方新式では隅飾は軒先面よりわずかに後退して立つ。奈良県吉野郡吉野町の山口区塔(建治四年(弘安元、1278)銘、同)、高野山発掘金銅塔(弘安十年銘)などを初期の例とし、鎌倉時代後期には形式が定形化する。
しかし関東など東日本では、全体に細身で、基壇や塔身を框形で囲う独特な形式が生じた。神奈川県鎌倉市の覚園寺開山塔・大燈塔(正慶元年(元弘二、1332)銘、ともに重要文化財)は代表例である。
なお、室町時代以降、隅飾は次第に外方に傾斜するようになり、近世の作例では極端に張り出している。
『国史大辞典』より
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